小心者でも言いたいことがある。~公務員として働いていましたが、うつ病になりました。~

地方公務員として働くアラサー腐女子。典型的パターンでうつ病を発症してしまう。悩み藻掻きつつも幸せを掴みたい。日々の奮闘をまとめます。

自分の居場所を勘違いしてるかも問題

こんにちは。中瀬一菜です。

今日は、普段からうっすらと考えていた居場所について、文字に起こしてまとめようと思います。

 

人間、生きているといろんな顔があって、いろんな居場所があると思います。

たとえばわたしの場合は、ざっと考えてこんな感じ。

  1. 家族の中でのわたし(両親の娘で、実家暮らし、未婚)
  2. 職場の中でのわたし(某課の某グループの某事業の担当者)
  3. 友人の中のわたし(小中高大・予備校、それぞれ異なるグループの中の一人)
  4. 素人脚本家としてのわたし(シナリオ・センターで勉強したり、公募に出したり)
  5. SNS等ネットの中のわたし(このブログの執筆者、TwitterのID×××の中の人)

個人は複数の顔を持っていて、その顔の数だけ居場所がある。私はそう考えています。

たくさんの顔があればあるほど、自分という存在を薄く広く伸ばすことができて、それだけ複数の居場所に言葉を言い換えれば依存をすることができて、仮にどこかの居場所で悪いことが起こってもそのほかの居場所に逃げ込むことによって正気を保てる。自分の顔は多くあればあるほど良いと思います。

 

 

けれど、この顔ー居場所と言い換えてもよいーが、ずっと永久的に存在し続けるかというとそれは違っていて、その時その時の自分の能力や選択によって無くなったりするものだと思います。

その居場所がなくなるとき、わたしはなんとなく肌で分かるというか、居場所だと思っていな空間に拒絶されるような感覚があります。

むしろ、この居場所がなくなるという感覚に鋭くないと、依存先を持っておくという意味での居場所の効果が、損なわれるような気がしています。

 

過去に仲の良かった友人。でも、最近は仕事やその他様々な理由から、まったく連絡を取っていない。

学校。自分が進学して卒業したけど、先生は懇意にしてくれている。

職場。異動をして無関係になったけど、自分が過去にした仕事のことは後任者に今でも質問される。

 

上記の場合、わたしは、居場所が一つ無くなったなと判断して、そっと距離を取るようにしています。もちろん、この時、居場所が無くなったなと肌で感じていますよ。

居場所というのは、思うに、自分から距離を取らないと、いつまでもその名残がついて回るものです。「昔のあなたはそうだったね」と語られてしまうのが可能なのですから、自分がこの居場所は無いものだと思っていても、「そういう居場所が過去にあった人」という色がついてしまう。

別に、ついたままの色もあると思います。どこそこ大学の卒業生、なんとか事業の担当者のような、自分にとってこれから先の未来で何らかのプラスになると思えるのなら、すでに居場所は無いと思っていても切り捨てずに保管すればいい。

逆に、色がついていることで不利になることがある場合は、即刻消し去るのが賢いのではと思うのです。たとえば、過去にその居場所に属していたこと自体が恥だとか、そういう場合。

 

こういう居場所の増えたり消えたりという大きな流れが「ご縁があった/なかった」という言われ方をするのだと思います。

自分の顔、居場所、色、縁。いろんな言い回しは可能でしょうが…言葉遊びの範疇でしょう。どうも、こういう自分勝手に名前を付けて設定をすることが好きな質でして。

なんとなく、日本人なら、「ご縁」と言えばそこはかとなく儚さを感じて、親しみがあるのではないでしょうか。みんな桜が好きなように。わたしとしては、居場所が無くなるというニュアンスをそういう風に捉えことが好きです。無くなるというマイナスなイメージを、自分勝手ではありますが、綺麗に飾ることができるので。

 

 

でも、逆に、自分はここに属している信じている居場所こそ、実は無くなっている居場所であるということもあると思っています。「わたしの○○の仕事は、わたし以外にできないんです!」「わたしがいるからこそ○○は上手くいってるんです!」など…最近はよくブラック企業で苦しむ方がそう思われることが多いような…僭越ながら、そう思いつつニュース記事を見ることがあります。

わたしは、自分がそういう風に思い始めたときは、よくよく周囲を観察するようにしています。そういう思い上がりによって、その居場所を共有する他人に自分の気持ちを押し付けて不満等を我慢させることがあると思っているからです。

 

ただの不満ならまだかわいいものです。お前なんかいなくなれと、思われているかもしれません。

他人様に不愉快な思いをさせてまで、自分の居場所を持っておくのはちょっと違うような気がします。なにより、他人のそういう強い念(ちょっと宗教臭くて申し訳ないです)はあんまり良いものではないと思います。

 

こういう場合、自分ではなかなか気づかないものです。だって、自分で盛り上がって気持ちよく完結しているのですから、疑って気持ちの持ちあがりに自ら水を差すなんて、普通ならしたくないはずです。気持ちがいい居場所と認定してそこに依存すれば、自分の精神面を相当補強できますし。

なので、わたしは、そう思い始めたら、問答無用で少し居場所と距離を置いて一緒に居場所を共有する仲間を観察するようにしています。

きっと気づかないふりをしている方が、人生をうまく乗り切る方法としては賢いのでしょうけど、変に潔癖な性格の関係上、そうともいかないのです。

別に、こんな潔癖に対処する必要なんかないのですけどね。だって、自分の感覚というか、そういう見えない部分の管理の問題ですから。

 

 

わたしは、自分とは「ご縁」のない居場所になったと判断した場合は、さっぱりと関係を断ち切るようにしています。

御陰さまで、腹を割って話せる人間はごくわずかしかいません。今でもわたしと一緒にいてくれる人には頭が上がらないです。きっと、その人の努力もあって、居場所を共有できていると思うので。

もしかしたら、わたしの早とちりで無くなったと思ってしまった居場所もあるかもしれません。そうおもうと、申し訳ないし、もしかしたらとありもしない仮定の今を想像してしまいます。

 

居場所が無くなるとき。すごく儚い。その場で過ごした時間が、走馬灯のように流れ、「無くなってしまった」というマイナスなイメージを纏い、全体的に「よくない思い出」になってしまう。

でも、そういう風に居場所が一つ消えれば、次に新しい居場所が増えるかもしれない。いや、増やしていかないといけない。それは、無くなってしまった居場所よりも居心地がいいかもしれないし、一生ものの居場所になるかもしれない。

そうやって自分で自分の居場所や思い出を綺麗に飾って散らせていく。

ちょっとナルシストっぽい考え方ですが、わたしとしては、そういう風にした方が生きやすいのです。

…また自分しか分からない記事を書いてしまった感がありますね。

 

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書いた人 中瀬一菜(なかせ・ひいな)
うつ病が原因で退職した元公務員。未婚・アラサー・障害者。
うつ病があっても自立した生活を送るために日々奮闘中。
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